中谷直登のブログ

イピカイエー

デスストランディングの性善説

メタルギアソリッドの2と3は当時夢中でやったな。

話題のデスストランディングは発売日から少しずつプレイしていて、今はマップ上でいうと半分地点くらい。このゲームが今の時代に生まれたのがとても興味深いと思う。

 

デスストランディングはどういうゲームなのか。まだ全クリしてないからあれなんだけど、ストーリー上はアメリカ合衆国がなくなってしまった後、北米大陸の各地の孤立都市を主人公が足で繋いでいくというものになっていて、「つながりこそが重要だ」的なメッセージがある。トランプ政権が生まれたのは2017年だけど、デスストは2016年時点でティーザー映像が出ている。ストーリーはどういう影響と狙いがあったのかは知りたいところだ。

 

で、ゲーム内容は「広大な土地をひたすら荷物背負って走る」という、良くも悪くもそれだけだ。各ポイントで荷物配達の仕事を「受注」して、ポイント先に「納品」する。その道中ではBTと呼ばれるハリーポッターのディメンターみたいなのが彷徨うこともあり、ここはメタルギアよろしくステルス突破する必要がある。それから人の荷物を狙って襲ってくる集団にも遭遇するが、一人ずつ戦えばあまり脅威にはならない。ので、ゲーム的にはほとんどが荷物を背負って移動する場面になる。

 

しかしユニークなのは、フィールドに他プレイヤーの痕跡が残ることだ。オンラインの他プレイヤーは、同じフィールドには現れないけど、彼らが移動のために使った梯子やロープが自分のフィールドにも残されて、使えたりする。足跡も見えたりする。

基本的に広大なフィールドを一人で走るだけの孤独なゲームなので、「みんなもこの崖を登ったんだ」みたいな痕跡を見ることができて楽しい。

これは登山の感覚に似ていて、険しい山道の所々につかまるためのロープなんかが張ってあると、「他の人もここを通ったんだな」と、妙な安心感が得られたりする。要はそれをオンラインでやったのがデスストの醍醐味になっている。

 

こういう誰かが残した痕跡(梯子やロープ、その他)にはSNSみたいにいいね!がつけれるようになっていて、みんなが助かる場所にかけられた梯子やロープにはたくさんのいいねが集まっている。また、自分が残した梯子やロープにいいねが集まったりすると、「他の人たちの役に立てたんだ」と少し嬉しくなる。

 

オンラインといえばリアルタイムの戦いや協力を思い浮かべがちだが、小島秀夫監督はこの「ゆるいつながり」の感覚を大事にしたらしく、こんなことを言っている。

 

「間接的に繋がるというコンセプトのゲームですが、僕は遊んでほしいと思っていました。世界は繋がっているのにヘッドショットばかりしていて、それはそれで楽しいんですけど、そこに問いかけをしたわけです。」

 

「「いいね」を例にすると、ポジティブはあってもネガティブな評価がありません。するとスタッフが「なぜネガティブがないんですか? SNSにはあるじゃないですか」と言ってくるわけです。それと、お金やアイテムにならないことも同意してもらえませんでした。またスタッフが「ゲームのプレイヤーは自分が有利にならないことはしませんよ」と言ってきますが、それをやったら普通のゲームなんです。ポジティブというのは無償の愛や! と言って作り始めて、ようやく伝わったのは1年半くらい経ったころでしたね。」

 

ポイントは、このゲームの面白さが性善説に基づいていることだと思う。敵を騙してハメて殺すことが大事じゃないゲーム、見返りが大事じゃないゲーム。ただ間接的にいいね!が貰えたら、それで嬉しいよねというゲーム。Instagramがいいねの数を非表示にしたり、SNSの弊害みたいなのが取り沙汰されやすい今のタイミングで、「いいねって、いいよね」というゆるくポジティブなテーマを掲げて、それを壮大な形でゲームにした勇気とカリスマはすごいなあと思う。小島秀夫監督自身も熱心なSNSユーザーでもあるし。

レビューであれこれ言われてるように人を選ぶゲームだ。ハマらない人にはとことんハマらないと思うけど、今のところ独特の世界観と魅力が受け取れているので、とりあえずストーリーは完走したいと思う。今週末はスターウォーズの新作ゲームも出るから忙しい。

 

お前はお前しか頼れない少林寺拳法の話

自分はとくに何者でもないが、今まで無事に生きてこれたのには子供のころ(小1-中3)に励んでいた少林寺拳法の影響が大きい気がする。気づかぬうちに自分の人格形成に大きく影響していたのだなと、大人になってから気付くことが多々ある。

勘違いされやすいが、ジェット・リーなどのイメージのある少林拳とは無関係。少林寺拳法は、GHQ下における敗戦国日本が日本で新たに作り上げた平和主義の拳法だ。

格闘術としての少林寺拳法は、空手と合気道の中心のようなものだと思う。打撃も関節技もある。実戦向きというより護身術としての側面が大きいだろう。

勝敗なき拳法

少林寺拳法はユニークで座学があり、武術だけじゃなくて心も鍛えようねというものがある。これは、そもそも敗戦後の日本の若者の精神を立て直そうという成り立ちに由来するようだ。そのためか、少林寺拳法には試合がない。勝ち負けを設けたくないためだ。「勝敗は美しいスポーツマンシップを生む一方で、時に相手の失敗や不幸を願うようになるため、少林寺拳法は試合を禁止する」というのが教えだった。(まれに格闘漫画などで異種格闘技試合が描かれるとき、少林寺拳法の使い手は掟破りの参戦みたいな感じで登場し、さんざん煽っておいてたいてい負ける。)

演武というコンテストみたいなものはあった。予め考えた殺陣のようなものを披露するものだ。打撃もあれば関節技や投げ技もあり、上級者の演舞はまさに映画のアクションのように気迫あふれるものがあった。

僕は現在ライターとして記事を書くが、演武の評価基準のひとつである「残心」という概念が活かされている。心を残すと書くこの概念は、「果たして次の瞬間はどんな技を繰り出すのかという気迫を残して、すっと演武を終える」という美徳感のことだ。この技で最後ですよ、という気の抜けを悟らせず、今にも次の技を繰り出そうとする、身体にキッと気を溜める仕草も見せて、ふっと終わる。この残心が美しいとさせる価値観を叩き込まれて育った僕は、記事作りにおいても無意識に「残心」を取り入れるようになった。「次の行に何が書かれているのか、もっと読みたい」くらいに思わせる程度でふっと記事を結ぶ。裏返せば、最後の一文まで神経を宿すということを心がける。

それから、少林寺拳法の、一歩引いた達観的なところも好きだった。常に「本当の強さとは何か」と生徒に問い続ける少林寺拳法の先生は、「かつてボクシングの世界チャンピオンが、武術などかじったこともないチンピラにナイフで刺し殺されたことがある。身体ばかり鍛えていてもどうしようもないことがある。さあ、お前はどうやって強さを得るのだ」といつも繰り返していた。

己こそ己の寄る辺

それから最も影響を受けたのが、座学の部分だ。少林寺拳法ではかならず練習前に聖句・信条・請願というものを唱える。これがけっこう長いのだが、何年もやるうちに空で言えるようになる。

https://plaza.rakuten.co.jp/borry/2000/

一番初めの聖句は、今もよく覚えている。子供の頃はよく意味もわからず唱えていたが、ある程度大人になってふと思い出すときに、深いなあと気づかされる。こんな調子だ。

己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり

自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依りて浄むることを得ず

 

現代語で訳すると、こんな感じである。

自分のことが一番頼れるよね。むしろ自分じゃなくて誰に頼るの?よく整えた自分こそ、一番頼れる存在なんだよ。

悪いことをすれば、汚れるのは自分。悪いことをしなかったら、きれいになれるのも自分。汚れるのもきれいになるのも、お前の問題だからな。他のやつがきれいにしてくれるとか思うなよ。

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結論、お前の問題だから、何でも人のせいにしてないでまずお前がしっかりせえよ。あのころ、少林寺拳法がこんな教えを叩き込んでくれたおかげで、なんとかめげずにやってこれたのかもなぁと時々思う。

 

追記。釈迦(仏教の開祖)のオリジナルの教えも、少林寺拳法で学んだ。もともと釈迦は、「私に向かって祈っても意味ないし困るから、自分でなんとかしろよ」ということを説いていたが、それが長い年月の中で「仏に祈れば助かる」と都合よく解釈されたのだと。小中学生当時、学校の歴史の授業で出てくる仏教の感じと、実際のところはえらい違うんだなあと感じた覚えがある。

起業までの話2

前回は、就職からフリーランス起業までのエピソードを綴った。今回は、起業後と法人設立まわりを書く。

前回:

https://naotonakatani.hateblo.jp/entry/2019/10/27/223204

開業

確か、退職してから独立1日目までは週末を挟むくらいで、ほとんど休みみたいなのは取らなかった気がする。

いろいろ調べて、自宅以外の仕事場を作ったほうが良さそうだということで、県が運営している寂れたインキュベーションセンターに入居した。4〜5人くらいは収容できそうな個室に、楽天で買った安いデスクをぽつんと置いて、独立1日目はひっそりと始まった。在職中からお付き合いのあった社長さんから1人だけ、開業祝いの花が届いた。嬉しいものだった。

会社を辞めた瞬間から給料日はなくなり、すべて自分が個人で受けた仕事の入金だけで生きていくわけだから、考えるとゾっとした。でも、根拠のない自信もあった。

その自信につながっていたのが、在職中から続けていたSEOブログだった。その頃には「SEO 名古屋」でトップ2,3くらいには入るようになっていて、ちょこちょこ問い合わせもあった。これを仕事につなげて、独立1ヶ月目から会社員時代の給料分くらいは稼げるようになった。

もちろんムラはあった。しかも、良い〜悪いのムラではなくて、普通〜悪いのムラだったから心が細くなった。そんなに仕事があるわけでもないので、1日の中で暇な時間も多かった。デスクが置いてあるだけの、声が響く空虚な個室に1人でいると気が滅入った。自分はこんな調子で大丈夫だろうかと不安に襲われた。ちゃんと会社員として働いている人々はすごいなと思った。

これは独立後に起こりがちな気持ちのダウントレンドだ。これまで毎日集団で仕事をしていたのに、いきなり1人ぼっちになる。しかも、収入の保証はいっさいない。仕事が安定してくるまでの時期は、自分の気持ちを騙し騙しやっていくしかない。保険や各種固定費は?もし今月仕事が取れなかったら?固定のお客さんに打ち切られたら?事故や病気でしばらく仕事ができなくなったら?冷静になって考えれば、不安要素しかないからだ。

タイタニア

そのうち、吹っ切れる瞬間が訪れた。それは、「自分が頑張らければ自分が死ぬ」という事実は、裏返せば「自分は命をかけてやっている」ということなのだと気づいたからだ。

社会を海に例えて考えた。会社は船。大きな船も小さな船もある。どこにあるか分からない宝島に向かって船を進めている。

豪華で大きな船も見える。デッキでは乗員がパーティーをしている。きらびやかだ。海面を見下ろすと闇に包まれていて、彼らはここから落ちればもちろん死ぬと思っている。このデッキから海に飛び込むなんて、よほどの狂人だと。

その海面を、僕は身一つで泳いでいる。あのデッキからは、僕の姿は闇にまぎれて見えないだろう。だが、こちらからは見える。この波に揉まれ、息継ぎの方法を見出しながら、身体を漕ぎ出す脚に筋肉を蓄えながら、彼らが見える。グラスを片手に酔っている。筋肉はなく、脂肪がある。彼らはあの大きな船から、様々な景色を見下ろしている。彼らは自分自身を大きいと思っている。しかし、実は大きいのは乗っている船でしかない。

一方、海面。この脚を少し休めれば、たちまち沈んでしまう。命がかかっているに等しい。そう気付くと、「自分は、SEOに命をかけているんだ」ということに気づくようになった。

会社勤めの同業者と会うこともあった。直に海を泳ぎ進むうち、吹っ切れていた。自分は命をかけている。その時点でもう負けるはずがない。

モチベーション

そう考えることで、自分を騙して仕事を続けていた。それでも、モチベーションの悩みは尽きなかった。それは、やりたいことをやるために独立したはずなのに、やりたいことが出来ていないということだった。

SEOコンサルタントの仕事は苦ではなかったが、本質的に自分がやりたいことではなかった。それから何よりも、自分は「人のための仕事」が苦手だった。

「仕事なんだから割り切ってやる」「お金になるんだったら一生懸命やる」という考え方がある。そうなろうと何度も努めたが、その度に自分の中で「仕事だろうと興味のないことはやれない」「お金になろうとも興味がないから、そのお金いらない」という結論にたどり着いてしまった。

「お客様に『ありがとう』と言われると、どんな苦労も吹っ飛びます。この『ありがとう』のために頑張っているようなものです」という素敵な考え方もあるだろう。これも自分の場合は作用しなかった。「この俺が頑張ったんだから、良い結果が出るのは当たり前だ。『ありがとう』と喜んでもらうのは良いが、俺は『良かったですね』程度にしか思わない」、という考えだった。つまり、自分が満足して納得しなければ、たとえ売上になろうと感謝されようとも、いつまでも満たされないということだった。

 暇だけはあったので、色々なことを試した。映像制作をかじってみたり、名古屋市内の夜カフェが検索できるデータベースサイトを作ったりした。その一環で、映画のファンサイトをつくった。

映画サイト作り

学生時代にレンタルビデオ屋でアルバイトしていて、社割を使って気になる作品を片っ端から見まくる生活をしていたので、映画は好きだった。この気持ちと、Web制作会社出身という見地から映画PRのWeb活用を見た時に、ガラ空きすぎて驚いたものだった。公式サイトにはほとんど情報がない。SEO業界では考えられない、テキストが画像のベタ貼りのサイトや、制作業界ではタブーとされる「サイトを開いたら強制的に音楽が流れる」みたいなサイトもザラにあった。信じられない。実質的に有益な情報と言えば有象無象の個人ブログ便りという状況だ。今でこそ進んできたSNS活用も、2015年当時はほぼ皆無のように見えた。一般企業は、とっくにSNS活用のトライアンドエラーを重ね、ある程度のノウハウが蓄積されていた時代だった。

Web制作会社時代は、様々な業種の企業の社長さんと顔を突き合わせ、やれブルーオーシャンレッドオーシャンだ、ランチェスター戦略だなんだと考えを練る日々だったので、映画業界はWebに対してこんなに手つかずなのかと大きな衝撃を受けた。これは自分がサイトを作ったらどうなるんだろうと、見てみたい気持ちに駆られてサイトをひとつ作った。10ヶ月後に公開される映画に向けたサイトだった。

目論見は的中して、映画公開の時期には映画タイトルの検索順位トップ3は余裕で入ることができた。超超超ビッグキーワードである。これまでの実践で学んだノウハウを注ぎ込んだから、というのもあるが、それほど業界が何もやっていないということの裏返しでもあった。

とんでもないアクセスが得られて、ピーク時には1日に100万PVになった。自分ひとりで作ったサイトにこれほどの人が来るものなのか、こんなに大勢の人が動くのに、他は誰も何もやっていないのかと驚愕の思いだった。少し収益にもなったので、そのお金でニューヨーク旅行に出かけた。自分はなんて自由なんだと無敵の気分だった。

ウォズニアックの言葉

 完全に趣味を活かした活動だったので得意な気持ちだったが、一方で「俺こんなことしてていいのかな」という不安は未だ拭えなかった。同世代の若い起業家たちはもっと華々しく活躍していて、大きな収益を上げたり、有意義な社会貢献をしている。自分はひとり部屋で映画のキャラクターの記事を書いている。(それも今思えば、"記事"まがいのひどい文章だ。)

そんな折、Facebookでとあるメッセージが入った。「東京コミコン」が来年から開催されます。キックオフ記者会見があるから是非取材にお越しください。

スター・ウォーズ』の伝説的な出演者と、アップル社のスティーブ・ウォズニアックもやってくるということだった。張り切って東京に行った。

そこでウォズニアックが語ったスピーチが人生を変えた。いわく、「私達の生活を豊かにする素晴らしいテクノロジーは、みな子供の頃に夢見たポップカルチャーの憧れの具現化だ」と。離れた場所で会話ができるなんてスタートレックの再現だ、喋るカーナビなんてC-3POのようだ、と。

それまで、映画サイトの運営を子供じみた恥ずかしいものと思うこともあった気持ちが、一気に正当化された思いだった。あのスティーブ・ウォズニアックが言ってくれたのだから。人の「好き」を正当化させるということが、いかに大切であるかも悟らせてくれた。とにかく、この映画サイトの運営を軸にしてもいいんだと気づいたのだった。

サイトはひとつの映画に的を絞った内容だったので、その映画の劇場公開が終わるにつれてアクセス数もしぼんでいった。そこで新たにサイトを立ち上げて、海外ポップカルチャーの全般を取り扱うことにした。THE RIVERの前身の誕生だ。

ただしTHE RIVERと根本的に違うのは、そのサイトは登録ユーザーの誰もが記事を投稿できる、プラットフォームを目指していたことだった。

ファンメディア構想

独立すると自ずとビジネスについて考えざるをえない場面が多い中で、自分は「プラットフォームを目指せ」という考えに惹かれた。ラーメン店ではなくカップラーメンを作る。美容院ではなくホットペッパービューティーを作る。より多くの人を巻き込むプラットフォームを作るのだ。

当時、アメリカに映画の記事を自由に投稿できる、MOVIEPILOTという超イケてるプラットフォームメディアがあって、大いに参考にした。要は日本における映画のUGC(ユーザー生成コンテンツ)、ファンメディアの覇者になろうと考えた。Wordpressのユーザーログイン機能をベースに見様見真似でプラットフォームの形式を作って、ユーザー登録すれば誰でも記事を投稿できるサイトに仕上げた。

ライターは全て僕の承認制にしていて、一時は登録ライターが100人以上にもなった。映画への愛と知識がすごい方ばかりで、読んでいて本当に面白い、タメになる記事がたくさん集まった。ライターの方からも、「学校や職場でこんな風に映画の話ができる仲間はいないが、ここに記事を投稿すれば色々な人に読んでもらえて嬉しい」と喜ばれた。ライター同士のオフ会も何度か開催した。ほぼ全員がリアルで会うのは初めてながら、「◯◯さんのあの記事は良かった!」とすぐに打ち解けていく様子が嬉しかった。自分の作ったものが、少なくともこれだけの人たちが、わざわざ集まってくれるほどのものに成長したのかと感慨深かった。

会社設立へ

「日本における海外ポップカルチャーのファンメディアを作る」このビジネスアイデアを発展させるにはどうすればいいかと考えていたところ、仕事の先輩であるOさんがケツを叩いてくれた。Oさんは独立直後にSEOブログで僕を見つけてくれて、会社で定額固定の仕事をくれた方だった。その会社自体もその頃EXITに成功した野心的なベンチャー企業で、名古屋の起業家たちの憧れだった。Oさんは、「中谷さんが会社を起こすなら僕は何でも支援する」と惚れ込んでくれて、今も実に様々な面倒を見て頂いている。

Oさんは僕の性格を見抜いていて、「中谷さんって、会社作りたいとか言いながら、結局いつまで経ってもやらないんですね」と刺してきた。そう言われると負けず嫌いというか、「よっしゃ、作ります」と奮起した。フリーランスの僕が会社を作ったのは、これくらいの「流れ」にまかせた動機である。こうして株式会社riverchが誕生した。(riverchの名の由来はまたどこかで。)

Oさん自身も成功的なベンチャー企業に身を置いているので、ベンチャーの戦い方を熟知している。相談しながら、まずは融資を獲得せよということになった。「日本における海外ポップカルチャーのファンメディアを作る」というアイデアを元に、夜遅くまでOさんに付き合ってもらいながら事業計画書を書いた。実績のない会社が融資してもらうには、日本政策金融公庫という国がやっている金貸しが無難だ。公庫の融資にも様々なプランがあるが、我々は「7年後」に借りた額をキッチリ耳揃えて返せよという内容の融資を申請することにした。そのため、7年にわたる事業計画を作らなければならない。今から7年後の会社の売上予想を分かる範囲で書く。すごい作業だと面食らった。

あとは事業計画書を抱えて、公庫の担当者に複数回プレゼンする。いまの映画業界はこうなっていて、こういうプレイヤーがいて、それに対してこういう戦略でこういうことをやります。1年後、3年後、5年後、7年後にはこういうことになっています。これを、スーツ姿の何人ものおじさんたちが納得できるように説明しなくてはいけない。こういうものは、半分はロジックでありながら、半分は熱意なんだろう。僕は独立した後に、「こちとら命かけてやっとるんじゃ」の精神を身につけていたので、熱意は見せられていたと思う。結果、充分な金額の融資を得られることになった。後日、通帳にボコンと大金が振り込まれていて、オホホイとなった。

ちなみに法人設立の理由を「流れ」と書いたが、フリーランスとして活動するうちから法人化の必然性は予感していた。業界において、個人では相手にされない領域がかなりありそうだと感じたことが大きい。一人称で「弊社」と名乗れることは、実は結構大事なのだ。

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というわけで、起業にいたるまでの主なエピソードはここまで。その後、「日本における海外ポップカルチャーのファンメディアを作る」という計画は方向転換する。ファンメディアは難しいという見解に至ったためだ。まずユーザーから投稿される記事にはあまりにも玉石あって、掲載を断るにあたって「いかに失礼のないように送り返すか」を考えるエネルギーが非常にストレスだったこと、および投稿される記事内容の事実確認が現実的に不可能だったこと。また業界的に、「一般の人があることないこと書いてるキュレーションメディア」との目で見られ始めたことも辛かった。折しも当時は、DNAのWELQ騒動もあったので。

そこで2017年9月にTHE RIVERとして心機一転の再スタートを切り、現在にいたっている。現在では東京・表参道にオフィスを構え、少数精鋭ながら誠意をもって記事をホームメイドで書き続けている。おかげさまで仕事もたくさん頂けるようになり、手が回らなくなってきたので、メンバーも募集しています。

求人について:http://riverch.jp/recruit/

起業までの話1

海外エンタメメディア(THE RIVER)でやっていくため、2016年10月に株式会社riverchを設立した。もう3年も経ってしまった。

誰に尋ねられたわけでもないけれど、起業して会社を作って社長をやるってどんな感じなの?という実直なところを、自分の立場から書いておく。

2016年10月に会社を起こす前に、1年半くらい自営業、つまりフリーランスをやっていた。この時点で、会社を辞めて起業の選択を取っている。

サラリーマン→起業へはけっこうな心構えと踏ん切りが必要だが、フリーランス→会社設立はさほど変化の実感もなく、「流れで」な部分が大きい。そのため今回は、サラリーマン→起業のエピソードを書く。

学生時代

 そもそも僕は大学を2年留年している。出席日数が足りない(単位が足りない)行為を頻発したため、1度ばかりか2度も留年した。さすがに2度目の留年が決まったときには、自分はなんて不能なんだと、人生終わったんじゃないかと思い詰めたりもした。
※ちなみに1度目の留年中に普通の就職活動をして、大手人材派遣会社の内定をもらって内定式や同期交流会なんかにも参加していたが、2度目の留年が確定したため辞退したというクズ歴もあります。

今になっては、2年間のロスは勿体ないなぁと思いながら、別に人生終わるほどでもないし、合わなかったんだからしゃあねぇよなくらいの気持ちなのだが、とにかく社会に出るのに一般的な大卒よりも2年の遅れを取っている。

その2年の留年中はほぼ毎日雑貨の店舗&ECサイト運営の会社でアルバイトをしていた。

中学生の頃にインターネット黎明期が到来し、高校生の頃のブログブーム(眞鍋かをりさんなど)をガッツリ通ったインターネット育ちの僕は、ECサイト楽天)の更新作業といった1日中パソコンに向かえる環境が大好きで、夢中で作業をしていた。そこでPhotoshopIllustratorを覚えたので、なんとなく「なら私はWebデザイナーになるわ」と考えていた。

サラリーマン時代

ようやく卒業できることになったので、解放感たっぷりに就職先を探した。そこで出会った社員数10名程度のWeb制作会社にWebデザイナー志望で入社することになった。

社長も30代半ばで若く、全体的に「若いITベンチャー」という感覚だった。とにかく社長が明るく、確か会社の求人募集要項に「お笑いが好きな人」と書いてあって、こんなくだけた会社が存在するのかと衝撃を受けた覚えがある。実際に見学に行ってみると、とにかく笑いに包まれた明るい職場でさらに衝撃を受けた。

その頃からTwitterは流行っていて、タイムラインには「就職したら死ぬまで辛い労働が待っているだけ」みたいな悲壮感が漂っていた。「社会は辛いんだろうな」とそうとう身構えていたが、実際のところ全然そんなことはなかった。1日中パソコンに向かって大好きなPhotoshopに打ち込んでいればよかったので、むしろ肩透かしを食らった気分だった。先輩たちに連れられてご飯に行くと、彼らが「100万、200万の案件が〜」みたいな話をしていたので、すごい世界だと思った。2留した大学生上がりの僕にとって、100万や200万なんて言葉は日常生活にはないものだった。

入社して1週間くらい経ってから社長に呼び出され、「SEO事業部」に移って欲しいと言われた。事業部、と言っても自分のほかに先輩1人の、合計2人だけの事業部だ。しかもその先輩は社でひとりだけ東京の自宅でリモートワークをしている人だったので、気持ちは実質ほぼ1人だった。(ここは名古屋)

Webデザイナーになりたくて入社したんですけど…と思ったが、「SEOの知識は必ず役立つ」「落ち着いたらまたデザインの方に戻ってよい」とのことだったので、言われた通りにした。

SEO検索エンジン最適化を考える一連のプロセスのことで、クライアントのWebサイトの構造を見直したり、コンテンツを追加したりする。当時はまだ、「外部リンク対策」と呼ばれる、言わばただの不正テクニックに効果があった時代だった。先輩も世の中も「外部リンクを買えばいいから」という風潮だったが、これはどう考えてもGoogleが対策をすれば将来的に効果がなくなるだろうから、自ら「弊社は外部リンクに頼りません」という方針を打ち出すことにした。(何より、外部リンク対策は頭を使わないのでつまらかった。)すると、この方針が信頼につながって、クライアントにも気に入ってもらえるようになった。

しかし、あまりにも社内外が「外部リンク外部リンク」とうるさく、むかついたのでブログを立ち上げることにした。不正テクニックなんかに振り回されないで、ちゃんとサイトのコンテンツを充実させようぜという啓蒙記事を精力的に書き続けた結果、「名古屋 SEO」みたいなキーワードで上位が取れるようになってきた。

社長たちとの仕事

SEO事業部では、いっちょ前に「SEOコンサルタント」を名乗ることになっていた。クライアントは中小企業(ときどき大企業に呼ばれることもあった)で、たいていは社長さん相手に直接サイトの改善指導をする。新卒1〜2年目でいきなりそんなことをやっていたので、度胸がついた。ときどき、クライアントである社長さんにお寿司に連れて行ってもらったりして、「こういうお店で醤油にわさびを混ぜてはいけないんだよ」と教えてもらったりした。

その時の会社が、良くも悪くも社長との距離が近く、またクライアントの社長さんたちと日常的に接するようになり、「世の中の社長と、社長じゃない人の違いってなんだろう」と考えるようになった。なんとなく、「みんな同じ人間だし、大した違いはない」「あの社長たちには自分の会社があって、自分の選んだ従業員と仕事を進めている、なんだか楽しそうだ」という印象があった。

勤め先は会社として制度が整っていない部分も大きく、また「SEO事業部」の実務的な大部分を自分で作っていたところから、「これは起業しちゃってもそう変わらないんじゃないか」と考えるようになった。明るく楽しい一方で問題点も多い会社だったので、先輩たちは2~3ヶ月にひとりは退職して、その多くは独立していった。そんな環境だったので、「我々は独立するもの」という考えがとても自然だった。

SEO事業部」で、リモートではあったものの唯一だった先輩も、とっくに退職して独立していた。すごく儲かっているようでイキイキしていた。「自分も独立しようかと思っています」と相談すると、「リスクはあるから万人にはオススメできないが、自分が本当に行きたい道を選べ」とアドバイスしてくれた。

Tからの電話

学生時代の親友Tから、突然ひさしぶりの電話があったのは、独立を思い悩んでいるまさにその時だった。Tと僕は、20歳のころに一緒にバンドを組んでいた。僕とTはツインギター&ボーカル。4人組のバンドだったが、特にTはお互いに「相方」のような存在だった。

僕とTはメタルコアが大好きで、Bullet For My ValentineのツアーDVDを観て「俺たちもいつかこんなふうに世界中をツアーしような」と志した仲だった。同じ夢を見ていたふたりだったが、決定的に違うことがあった。

それはTがストイックで実力を大事にする男で、僕はカッコつけで見た目ばかりを気にする男ということだった。Tは本質的にスポ根だった。四六時中ギターの練習に食らいついていて、ギターを握ったまま眠り、起きたらその瞬間から弾き始めるような男だった。ライブパフォーマンスは二の次で、棒立ちになってギターを弾くのが、当時の僕は嫌だった。

一方で僕は、ライブでのパフォーマンスばかりに気を取られて、ギターの練習をおろそかにしていた。だから、Tと合わせなければいけない場面もうまく合わせられず、Tはそこを嫌がっていた。

やがて、(いっちょ前に)音楽性の違いというものも出てきた。僕が洋楽かぶれのメタルコアを貫きたい一方で、Tは売れる可能性のあるポップな曲を目指したいと思うようになった。互いに真剣だったからこそだが意見の食い違いが出てきて、ついに解散することになった。

それから2人とも別のバンドを組んでそれなりに活動した後、バンドを辞めて社会人になった。しかしTは、「どうしてもバンドを諦めたくない」と、新卒で入った会社を半年くらいで辞め、フリーターに転じてまでバンドを続けていた。Tの新しいバンドの曲は質も高かった。ライブハウスで少しずつ人気が出ているらしいという噂も耳にしていた。

そのTから、突然の電話がかかってきた。「メジャーデビューが決定した。お前には伝えておきたかった」と。嬉しかった。こいつは自分のやりたいことだけを貫いたんだと、ガツンと打たれた思いだった。「でも、今は金欠で辛い。今日も朝からポスティングのバイトで、チラシを抱えて住宅街を歩き続けた。歩きながら曲のことを考えれるからいいんだけどね」と照れていた。要は、自分は今はまだフリーターという立場なのだと謙遜しているようだった。「でも、今楽しいでしょ?」と聞くと、食い気味に「楽しいよ!」と堂々と答えてくれた。

その二日後、LINEのタイムラインを開いてみると、Tが「COUNTDOWN JAPANへの出演が決まりました!」と報告していた。Dragon Ashやら木村カエラやら、名だたるアーティストと一緒だった。「諦めなければ、夢は叶うんですね」とコメントしていた。

この言葉と、「楽しいよ!」という彼の声、そして先輩の「自分が本当に行きたい道を選べ」という言葉がいっぺんに押し寄せて、「よっしゃ、やったる」と奮起した。すぐに会社にも伝え、独立が決まった。入社してから退職まで、1年10ヶ月だった。

つづく〜